Symposium
座談会
若手クリエイターを支援し、大人に魅力ある街に進化を。
南船場のレジェンドたちと、
船場・南船場や大阪の未来について語り合う
『オトナ可愛い』プロジェクトとは、2025年大阪・関西万博に向けた大阪船場・南船場エリア再活性化を目的とした取り組みです。
今回はプロジェクトのキックオフ企画として、1990年代の南船場を人気エリアへと変貌させた立役者のお二人にインタビュー。
大阪観光局溝畑理事長も参加し、船場・南船場エリアの未来像について語り合います。
Member
メンバー佐藤 裕久
京都府生まれ。神戸市外国語大学英米語学科中退、1991年バルニバービ設立、代表 取締役に就任。
現在、東京・大阪をはじめ全国に96店舗(2023年7月末時点)のレスト ラン・カフェ・ホテルを展開。
近年は、淡路島をはじめ島根県出雲市などでも「住みたくなる街づくり」をテーマに、食と宿 を切り口に
地方創再生に取り組む。
著書に『一杯のカフェの力を信じますか?』(河出書房新社)『日本一カフェで街を変える男』
(グラフ社)がある。 2022年2月には、環境省エコファースト企業に認定され環境保全先進企業として飲食業界を牽引。
浜崎 健
鳥取県生まれ。大阪に拠点を置いて活動。
南船場の赤い人として知られる浜崎健が主宰する美術館とミュージアムショップを併設した浜崎健立現代美術館代表。浜崎建のライフ(アート)ワークは「飛ぶ」「寝る」「座る」を
テーマに作品を制作。世界のアーティストと親交があり、NYのホイットニー美術館での出演の際はニューヨークタイムズに取り上げられた。
溝畑 宏
京都府生まれ。東京大学法学部卒業後総務省(当時の自治省)入省。
2002年大分県企画文化部長、2004年大分フットボールクラブ(大分トリニータ)代表取締役、国土交通省観光庁長官、2012年内閣官房参与、2015年より大阪観光局理事長に就任。
2025年開催の大阪・関西万博と2029年開業予定のIRを控えた大阪を、アジアナンバーワンの国際観光文化都市にすることを目標に活動している。
司会進行アリマリア代表 有馬ヒロコ
レジェンド二人の
南船場史
Reasons for choosing Minamisenba as a base for activitie. 南船場を活動拠点として選んだ理由
じゃあ僕から南船場との関わりを話しますね。
僕は南船場で「浜崎健立現代美術館」というギャラリーを主宰していますが、もともとは東心斎橋でのスタートだったんです、1992年ですね。
当時はバブルが弾けたあとの不良物件が多く出ていた時代で、僕はミナミでよく遊んでいて友達も多かったので、このあたりで展覧会をしたいなと考えました。
ですが当時のミナミでギャラリーといえば貸しギャラリーばかりで、賃料も1週間で20万円と高かったんです。
困っていたところ、知り合いの不動産会社の人が不良物件のテナントを月10万円で貸してくれると言ってくれたのに飛びつきました。
30年近く前のことですね。
あと、ギャラリーって白壁が基本なのですが、僕はそれが病院みたいで苦手で、赤いギャラリーを作りたいなと。
それで自分のギャラリーなら赤にできるいという単純な動機で、東心斎橋のビルの2階を借りて最初のギャラリーを出しました。
その後、東心斎橋が雑誌に取り上げられて注目されるようになり、ビルが売れたためテナントを出ていくことになりました。
それで南船場に移ったんだ。
やり始めたことは続けたい性格なので、他にギャラリーを出せるテナントを探したんです。
でも東心斎橋は賃料が高い。それで別のエリアを検討したのですが、自分のこだわりとして、電話番号が変わらないエリアがよかったんですね。
というのも、僕は当時の作品に電話番号をいれていたので、それを変えたくなかった。
そして、当時は大阪市西区新町に住んでいましたので、南船場が帰り道に通るエリアだったんですよ。そこで自転車に乗りながら不動産屋を見て回るようになりました。すると南船場の賃料は安かったんですよ。
まだ当時は、南船場が注目されてない時代だったからね。
それで南船場に移ろうと考えて、今のビルにギャラリーを移転しました。 それが今の「浜崎健立現代美術館」ですね。 小さなビルですが丸々貸してもらえることと、大家さんが家賃を下げてくれたのが決め手になりました。 それが1994年です。
真っ赤なビルとして、エリアのランドマークになったよね。
大家さんも非常に喜んでくれて。そういう人の温かさが南船場の魅力でしたね。
The Hamaque de Paradis is born across the gallery.
ギャラリーの向かいに アマーク ド パラディ誕生。
たちまち人気エリアに
僕が南船場に出店したのも、ある意味偶然で大阪の面白そうな、そして余り注目されていない、 つまり家賃も安い西天満・東天満・中崎町・南船場をピックアップして、街を回っていたら、そこで健とばったり出会って「お前、こんなところで何してるねん」て。 ほら、健は目立つから(笑)。
そのときに佐藤さんが「レストランを自分でやりたいんだ」と話をしてくれて。
で、アマーク ド パラディが入ることになるビルを紹介したんですよ。
そこは僕のギャラリーの向かいのビルで、大家さんも同じなんです。
そんなふうに、当時僕は南船場の物件情報をたくさん持っていたので、いろんな人に「南船場って面白いよ!」と紹介していたんですよ。
でも最初の頃は、佐藤さんを除いて誰もが「南船場あかんわ」という反応でした。
「南船場という名称がイメージ悪いから、北心斎橋にしよう」という声もあったくらいです。
そうそう、当時は南船場は印象が悪いエリアだった。
それが佐藤さんがアマーク ド パラディを出店したとたん、3ヶ月ぐらいで行列ができるようになり、あっという間に人気エリアになった。
アマーク ド パラディは半年ほどで大ブレイクしたんですが、そこからは「南船場ってええよな!」と周りの反応が180度変わったのが面白かったですね。
僕はギャラリーの1階を秘密のバーにしていたんですが、当時はそこに本当に色々な人が遊びに来ました。 僕は人の夢を聞くのが好きなんで、彼らの夢を応援する意味でも、そこで南船場の物件を紹介したりしていました。 当時はアメリカ村や東心斎橋が飽和状態で、もう少しひっそりした場所でビジネスをやりたいという人たちが結構いたんです。
健は南船場が人気エリアになるにあたっての、重要なファクターだったと僕は思っています。 彼は何の邪心もなく、好きなことをずっとやり続けている人間なんですね。 そういう人って、本能的に人に響くんです。 だからそんな彼を慕って、経済合理性を突き詰めているような人間が、心を清められたいと集まってくる。
いやいや、好きなことをやってるだけなんですけどね。 それで、物件資料を渡すとみんな出店していき、1994年・95年あたりは毎週のように新しい店ができる状況でした。 しょっちゅうオープニングパーティが開かれていて、いろんな人たちが集まってきてお酒が飲めた(笑)。
そうして南船場は発展して行った訳なんですが、この時期に南船場に集まったのはお金儲けを追い求める人たちというよりも、何か自分を表現したいなどの気持ちを持つ人たちでした。 ヘアスタイリストとか広告のグラフィックや企画をやっている人とか、どちらかというと飲食業の素人たちですね。面白い連中でした。
南船場に集まった人々
Young people and up-and-coming editors convey the charm of the area. 何事かを起こしたい若者や、気鋭のエディターがエリアの魅力を発信
面白い人間が南船場に集まるなかでも、佐藤さんは特にすごかった。 僕が印象に残っているのは、「あなたもトムソーヤになりませんか?」という看板を出して、まずスタッフを集めてから、彼らと一致団結して店作りから始めたことですね。
オコラレるよなぁ、、、一緒に寝ずにペンキ塗ったり。
でも、みんなワクワクしてたよね。
うん、してた。
普通だと厨房の人は店の内装や立ち上げに関わらないじゃないですか。 でもアマーク ド パラディは、全員が店をつくるところから関わったから、スタッフの思い入れが強い。 その思い入れって、やっぱりすごく大事なものだと思う。
当時南船場に集まった人たちは、自分の店をやるワクワクもあるんだけど、それ以上に南船場への期待が大きかった。 南船場なら何事かが起こる、何者かを生み出せると感じた人たちが集まって、実際、生み出したと思うんですよ。
雑誌ミーツ・リージョナルの編集長・江 弘毅さんの存在も大きかった。 彼は僕が東心斎橋にギャラリーを出した時に「オモロいやんけ」とすぐ取材してくれて、南船場に移転した時もすぐ来てくれました。 ミーツは今ならアウトじゃないかっていうようなマニアックなことを載せてくれる雑誌で、そういう意味では、今の僕があるのはあの人のおかげかもしれない。
僕もよく怒られてました(笑)。 江さんは「街文化」というのをずっと言い続けていた方で、アクが強い方ですが、やはり編集者としてすごい切り口を持たれていましたね。
当時僕が東京に行くと「南船場ってカフェブームの発祥地なんでしょう?」なんて聞かれたりしましたね。 そこは雑誌ミーツのおかげでもあるし、おそらく佐藤さんのような、顔が見える面白い人たちが、自分でお店を出している場所だからこそ注目されて勢いがあった。
26・27年前の、大阪が道頓堀やたこ焼きのイメージだけじゃない、カッコいいイメージが持たれるようになってきた、その一番のベースが南船場だったんじゃないかな。
南船場に寄せる思い。
望まれる船場・南船場の
未来像とは?
An attractive area rises. 廃れた場所から魅力あるエリアは興る
僕らはインフルエンスしただけで、南船場を創ったわけではありません。
ただ経験から話すと、当時の僕らは家賃が安いから南船場に来たわけです。
NYも同じですよね。ソーホーなんて50年前は怖くて誰も近寄らない場所でした。
それが安いから人が集まり、30年前には人気の街になりました。
しかし街を立ち上げた人たちは居づらくなって、チェルシーや10年前くらいからはブルックリンに移動していきます。
だけどそのブルックリンですら、今やマーケット整備されて立派な高級エリアになってしまいました。
南船場もそれと同じで、名前が売れてナショナルブランドが来る街になってから、初期の面白さを失いました。
ナショナルブランドがダメというわけではありません。
ですがナショナルブランドはチェーン展開しますので、青山にも名古屋にも博多にもあるような街になってしまうわけです。
そして不動産価格も高騰してゆき、あるときから人気が堀江に移っていくようになりました。
というのも、堀江の方が区画が大きいし、物件ももともと家具屋さんなので天井が高い。
それで堀江は原宿や青山のような、日本を代表するファッションブランドが店を構える場所になりました。
オレンジストリートを通れば、日本を代表するブランドが揃うようなね。
それによって南船場はちょっと廃れたわけですが、これは逆にチャンスですよね。
僕らは廃れたということを「よれる」と表現しますが、よれた感じのところに若者たちが興味を持ってくれると、南船場はまた勢いを取り戻すと思います。
ただしそこには一つネックがあって、家賃って一度上がると中々下がらないんです。
なので、20代30代のお金がないけどチャレンジしたい人たちに、行政が区画あるいは古いビルを借り上げるか買い上げて、低コストでビジネスを始められる仕組みをつくれるといいですね。
まずは暫定的に万博まで。
万博が済んだら、自立できる人は自立しなさいねという仕組みができると、面白い大阪カルチャー・南船場発カルチャーが新たに生まれてくるのではないでしょうか。
街づくりって、おそらく面白い店が何店か来たら成功すると思うんです。 ですがそういう店をやっている人たちって、お金では動かない。動くとしたら、人間の付き合いです。 でもそういう人たちを誘致できたら、むちゃくちゃ面白い街づくりができると思います。
Communication with newcomers creates a chemical reaction. 新参者とのコミュニケーションで化学反応が生まれる
参考になるかは分かりませんが、僕は今、バルニバーニの新事業として地方創再生に関わっています。
その一つの取り組みとして、淡路島で昨年から春分・秋分の日の年2回にお祭りを開いているんですね。
その中で地元の人と僕らのような新参者とのコミュニケーションで化学反応が生まれたのです。
このお祭りは行政からまったくお金をいただかずに実施しているのですが、施設を建てるのとは違ってイベントでしたらコストもさほどかかりません。
協力する人たちが多数集まれば実現しやすいと思います。
そうすれば、南船場の面白さを再認識してもらえるきっかけになります。
またそれを万博までの2年間をかけて発信し続けていけば、海外の方が万博を訪れるときに、南船場にも足を運びたいと思ってもらえるようになるのではないでしょうか。
観光局が考える、
望むべき大阪の未来
Make Osaka the No.1 International Tourism and Culture City in Asia. 大阪をアジアNo.1の国際観光文化都市にする
私は京都出身で、東京に出て総務省の官僚になりまして、ワールドカップ誘致や大学設立などに関わったのち、2010年に観光庁長官に就任。
2016年に大阪観光局の代表を引き受けることになりました。
そこから「大阪をアジアNo.1の国際観光文化都市にする」「大阪から日本を変える」をミッションに活動してきました。
大阪観光局の仕事を引き受けるにあたり、まず考えたのがエリアマネジメントです。
大阪といえば、キタとミナミというイメージが強いけれども、他にも魅力ある街がたくさんあります。
ただ東京と違うのは、エリアごとのマネジメントができていないんですね。
そこで、船場・南船場とコリアンタウンから重点的にエリアマネジメントを始めました。
いつからですか?
去年ぐらいからですね。 関係者を集めてプロジェクトを発足させて…。 今回の「オトナKawaii」プロジェクトも、その流れから始まりました。
大阪観光局のオフィスは南船場にあります。
私が南船場にオフィスを構えたのは、東京でいうと表参道や南青山のような雰囲気があったからです。
南船場には洗練された雰囲気の店が多く、スタッフも明るく気軽に声をかけてくれる雰囲気がありました。
街を歩いている人も若くておしゃれです。
そこは大きな魅力だと感じました。
大阪には中崎町やコリアンタウン、天神橋筋六丁目あたりに新今宮・新世界など、いろんな顔を持つエリアがあります。
そのなかでも南船場はこれからの観光で重要な視点となるSDGsというところでマネジメントできるエリアだと考えています。
Revitalizing Minamisenba in collaboration with the government, centering on art and SDGs. アートやSDGsを軸に、 行政との連携で 南船場を再活性化
具体的にはこれからですが、今日の座談会が大いに学びを与えてくれました。 空間、建物、人を含めたマネジメントをしっかり行い、そこに佐藤さん浜崎さんがおっしゃったようにイベントを差し込んでいきたいですね。 すでに「オトナKawaii」プロジェクトでも、スイーツパスやビューティパスの企画が立ち上がっています。
建築やアートという軸はどうでしょう。 南船場といえばオーガニックビルが有名で、海外からも建築好きな人が見に来ます。
いいですね。
大阪のミナミ側のエリアでもここ数年で高級ホテルが急増し、富裕層インバウンドが増えました。
そうすると、アートはもちろんLGBTQや高齢者・障害者の受け入れ、ゼロカーボンやペットと楽しめるなど、世界のSDGsの先端をゆくような街づくりが求められてきます。
私はそれを、南船場に期待しています。
思い出したことがあるのですが、昨年大阪で開催されたアート展示会で在阪クリエーターに今後の進退について伺ったところ、ほとんどが「東京に行く」と答えました。
大阪ではアートで生計を立てられないと言うのですね。
そこで調べましたら、例えば東京渋谷区はオフィスの賃料を抑えてクリエイターを支援するような仕組みを設けています。
先ほど近いことを佐藤さんもおっしゃっていましたが、大阪でも若手のクリエイターやアーティストを街をあげて支援する仕組みを、観光施策と並行してやっていくべきだなと考えています。
大阪や関西にも面白いクリエイターやアーティストはたくさんいます。 ただ、プロデューサーがいないんですね。 創る人はいてもまとめ上げる人が東京に行ってしまっているから…。
そうですね、僕も人のことを言えません。今は東京が拠点ですから。
アートはもちろん食やファッションなど、人間の五感・感性に訴えていく人材の確保が、これからの大阪を考える上で生命線だと考えています。
大阪は経済や交通アクセスというところでは非常に強いのですが、住居環境や教育面は弱く、優秀な人材が関西内でも神戸や京都に行ってしまっています。
その状況を巻き返すために、万博やその後のIRで一気に大阪を活性化させていきたいと我々は考えています。
またその流れを引っ張るエリアのひとつが、南船場です。
SDGsを意識したビューティ、グリーン、ファッションという軸で新たな大阪の魅力を打ち出せるエリアであることをみなさんに意識していただきたいですし、また我々もそこに絞って官民一体でマネジメントしていきたいと思います。
また南船場は人が魅力のエリアですから、人を一人ひとりを全面に押し出したプロモーションも大切だと感じました。
今日は非常に学びあるお話をお二人にいただきました。
今日のお話を活かし、今後の活動に変えていきたいと思います。
ありがとうございました。